ナポレオン・ボナパルトの生涯と日本

皇帝ナポレオン1世  ジャック=ルイ・ダヴィッド 作(1807年)

1769年8月15日、ナポレオン・ボナパルトは、コルシカ島アジャクシオの貧乏貴族の家庭に、5男3女の8人兄弟の次男として誕生した。当時のコルシカ島はイタリア・ジェノヴァ共和国の領土であったが、ナポレオンが誕生する1年前にフランスに割譲されフランス領となっていた。ナポレオンの幼名は、ナポレオーネ・ボナパルテと、イタリア風の名前だったが、1779年、父親は軍人にするため、10歳になったナポレオンを、フランス本土のブリエンヌ陸軍幼年学校に入学させ、同時にナポレオン・ボナパルトとフランス風に改名した。貧乏貴族が出世するには、軍人になることが有効だったのだ。続いてナポレオンは、陸軍士官学校に進学し、1785年16歳で砲兵士官になった。
その4年後の1789年、ナポレオンの運命を決定づけるフランス革命が勃発した。ナポレオンは王党派の軍人であったが革命派に加わった。1796年にはフランス軍のイタリア方面軍最高司令官となるが、革命により右往左往する政治家達に危機を感じ、フランスを再建する決断をする。

1799年に起こしたクーデターで政治の実権を奪取し、これにより第一執政となったナポレオンは、フランスの危機を見事に安定させた。

1804年5月18日 ナポレオンは、パリのノートルダム寺院で皇帝に即位した。
ナポレオン35歳、この時が絶頂期であった。

フランス革命が急展開を迎え、革命政府による王党派の処刑が始まり、ローズ夫人の夫ボアルネも1794年にギロチンにかけられ、彼女にも処刑の危機がせまったが、反革命「テルミドールの反動」が起こり処刑は中止となった。夫を失ったローズ夫人は2人の子供達と共に、政界の実力者バラスの庇護を受け生き延びる。
翌年、ローズ夫人は没収された前夫ボアルネの形見である剣を取り戻すため、息子のウジェーヌを軍司令部に行かせた。ウジェーヌが面会した士官は、その剣を返還してくれたので、お礼のため彼女は、その士官を訪ねた。
その士官がナポレオン・ボナパルトであった。

ナポレオンは優雅な物腰のローズ夫人に一目惚れしたが、彼女は軍服が似合わず冴えない姿のナポレオンには何の興味も示さなかった。ナポレオンは6歳年長で2人の子連れの彼女を強引に口説き落とした。ローズ夫人と呼ばれていたマリー・ジョセフ・ローズをナポレオンはジョセフィーヌと呼び、以後彼女はジョセフィーヌとなったのである。
1796年、ナポレオン26歳、ジョセフィーヌ32歳の時、二人は結婚した。役所への結婚届には二人とも年齢を28歳と記入していた。
この結婚以後、ナポレオンは幸運に恵まれ、1800年の第2次イタリア遠征で有名なアルプス越えに成功し、1804年にフランス帝国が発足し、ナポレオンはフランス皇帝となるのである。

『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』ジャック=ルイ・ダヴィッド 作(1808年公開)

フランス皇帝となったナポレオンにとって気になることがあった。ジョセフィーヌとの間に子供が出来なかったのだ。皇帝ナポレオンには後継ぎが必要だったのである。
1807年、ロシアから圧迫されているポーランドを助けるために遠征したナポレオンは、ポーランド貴族夫人ワレフスカと親密になり、男子アレクサンドレ・ヴァレンスキーが誕生した。自分が原因で子供ができないと思っていたナポレオンだったが、自分にその能力があることを知り、1809年にジョセフィーヌに対し離婚を告げた。ここにナポレオンとジョセフィーヌの結婚は14年間で終止符を打った。

ジョセフィーヌと離婚したナポレオンには過酷な運命が続いた。
1810年ナポレオンはオーストリア皇帝ハプスブルグ家の大公女マリー・ルイーズと結婚し、翌年には待望の男子ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフが誕生した。ナポレオンはその子に「ローマ王」の称号を授け大切に育てたが、1832年そのナポレオン2世は肺炎で21歳の生涯を閉じた。
1812年、大陸封鎖を守らないロシアを懲罰するため、ロシア遠征をしたナポレオンは、ロシアの焦土作戦と冬将軍により撤退を余儀なくされた。1814年には、勢いを失ったナポレオンに対し敵対政府は帝位を退くことを要求、さらにウイーン会議の決定により、ナポレオンはエルバ島の君主の地位を与えられ同島に流刑された。
しかし翌1815年、ナポレオンはひそかにエルバ島を脱出し、パリで歓呼の声で迎えられた。ナポレオンは復位しウイーン会議の諸国に決戦を挑んだが、ワーテルローで惨敗し、大西洋の孤島セントヘレナへの流刑に処せられた。セントヘレナ島で流刑生活を送っていたナポレオンは、1821年5月5日死去した。死因は胃潰瘍であったと言われている。52歳であった。

セントヘレナ島に埋葬されていたナポレオンは、1840年にフランス国王ルイ・フィリップにより、パリのアンヴァリッド(フランス廃兵院)へ改葬された。
現在のアンヴァリッドは陸軍博物館になっており、その屋外には1863年(文久3年)の下関戦争による4か国艦隊の砲撃でフランス艦隊が戦利品として持ち帰った長州藩の大砲が展示されている。

ナポレオン3世 シャルル=エドゥアール・ブーティ骨 作(1856年)

ナポレオンの失脚により1804年から1814年まで続いた第一帝政は終わりを告げ、ルイ18世によるブルボン第一復古王政に続き何回も政権が変わったが、1852年にナポレオン3世による第二帝政が発足した。
ナポレオン3世はナポレオン・ボナパルトの弟であるルイージとジョセフィーヌの長女オルタンス・ド・ボアネルが結婚し、1808年4月2日に誕生したルイ・ナポレオン・ボナパルトである。1848年からの第二共和制の普通選挙は21歳以上の男子であれば誰でも立候補できる制度となったため、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは国民議会の議員に立候補し、見事当選を果たした。さらに、その年の12月に行われた新しい憲法による大統領選挙に立候補し、大統領に当選したのである。

 

しかし、議会ではまだ王党派が強い勢力だったため、新大統領ルイ・ナポレオン・ボナパルトは憲法停止、議会封鎖の荒療治をし、新しい憲法を作り、1852年12月、皇帝に即位しナポレオン3世と名乗った。

ナポレオン3世による第二帝政が発足した翌1853年(嘉永6年)、鎖国体制にあった日本にペリー提督率いる4隻のアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航した。
これにより徳川幕府は開国に踏み切り、各国と条約を締結した。その中にフランスを含む5か国との修好通商条約があった。その条約に記された開港開市の期限に準備が間に合わないとして、幕府は期限の延期を交渉するため文久遣欧使節を、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルの 対象国5か国に派遣した。皇帝ナポレオン3世はパリにおいて、竹内下野守保徳を正使とした使節団を接見している。
この使節団には通訳として福沢諭吉、箕作秋坪、松木弘安(後の寺島宗則)が同行していた。
福沢諭吉は訪問した国々の文化、技術、制度、風景等を詳細に記録し、その内容は後に出版されベストセラーとなった「西洋事情」の中核となっている。

文久遣欧使節 左2番目が福沢諭吉

さらに幕府は新規の国造りと国防のため必死に西洋文明を学び始めるが、その中心となったのは、国内の安定と国防のための陸軍と海軍の創設であった。
フランスは幕府の陸軍創設に役割を果たし、1868年(慶応4年)1月18日に大阪より江戸城に帰還した将軍徳川慶喜と会談したフランス公使ロッシュは、慶喜にフランスが応援するから倒幕軍と戦うよう進言した。しかし慶喜は内乱が長引くと日本国が列強の支配下に陥ると判断し、その申し出を拒否した。
フランスと手を組むことはなかったものの、慶喜はフランス外務省を通じて皇帝ナポレオン3世から送られた、軍服とナポレオンが愛用したと同じ型の帽子を気に入り、着用して楽しんだと言われている。

この時のフランス政府の外務大臣は、ナポレオンとポーランド貴族のワレフスカ夫人との間に誕生したアレクサンドル・ヴァレフスキーであった。

『シャンパンは戦いに勝った時は飲む価値があり、負けた時には飲む必要がある』
                        ナポレオン・ボナパルト

現在のコルシカ島

観光地として賑わう現在のコルシカ島。サンジョベーゼやベルメンティーノなどのイタリア系の葡萄品種や土着の葡萄を使った爽やかなワインが造られる。

「グラン・サン・ベルネール峠を超える第一統領」
ジャック・ルイ・ダヴィッド作(1801年)

英雄ナポレオンを決定づけた この絵画には、アラブ馬の愛馬マレンゴが描かれているが、厳しい峠を越えるのには不向きだったため、ナポレオンは実際には騾馬に乗って峠越えをしたと言われている。愛馬マレンゴの足元に描かれた岩には、アルプス越えをしてイタリア攻撃に成功した英雄「ハンニバル」「カール大帝」そして「ボナパルト」の名が刻まれている。